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【創作大賞2026応募作・ファンタジー小説部門】Slit ①

【あらすじ】
私は鵜塚喜一郎。45歳だ。日葉新聞社が中核の日葉ホールディングス傘下の日葉広告社で、取締役CR本部長をやっている。
45歳で取締役とは、長いうちの会社の歴史でも最年少記録だそうだ。
ただ、私が担当するCR本部は今、過渡期を迎えている。
会社の経営判断で、CR本部本体とは切り離され、広告業界トップの電広社のCR部門の一部と経営統合すると決まっているからだ。
その難しい舵取りを私はしなければならない。
問題山積だが、やり遂げないといけないと思っている。

何故なら、私には妻の瑤子と高二になる愛娘の瑞希がおり、瑤子の思い切りのいい決断で買ったマンションのローンがまだ沢山残っているからだ。

めげてる場合ではない。

だから私は今日も早朝に起き、出社の準備を進める。


【本文】

#1



チン!

トーストが焼けた。

このオーブントースターは、3万もする高い物だが、金額に見合う程の高性能で、驚くほどおいしいトーストを焼いてくれるだけでなく、指定した時間が間違ってなければ、絶対に焼き過ぎる事はない。

焼けたトーストの表面にクリームチーズを塗り、昨日の日曜日に駅前のデパ地下で買ったスモークサーモンとサラダ菜を乗せる。

ガスレンジでは、鍋が沸騰したのを、コポコポという音で知らせている。

この湯に卵を割り入れ、ポーチドエッグを作る。

私は朝食用の卵料理のうちで、ポーチドエッグが一番好きだ。
と言っても、味が好きな訳ではない。それが証拠に、私はポーチドエッグにウースターソースをかけて食べる。私はポーチドエッグを作る過程が好きなのだ。

沸騰した湯に卵を入れると、すぐに塊が出来始める。

これを見るのが好きなんだ。

何だか、理科の実験をしてる気分になる。

卵が出来たら、掬ってボウルに入れて、同じ湯でソーセージを二本ボイルする。

全部出来たら、ダイニングテーブルに並べる。
最後に淹れたばかりのフレッシュなコーヒーを自分のマグに注ぎ、その横に缶の野菜ジュースを配置する。野菜不足はジュースで補う。

全部揃ったのを確認したら、私はTVをつけ、朝のニュースを見る。

時刻は、朝の4時55分。早朝だ。今日は1月の最終週の月曜日で、東京の朝の気温は、今シーズン初めて氷点下2度となったとTVが言っている。

私が住む15階の部屋は、廊下を含めて、全室エアコンが効いてるので、寒さは感じないのだが、外に出ると、途端に寒風が堪えるのだろうなと思った。

一番暖かいコートとマフラーをして行こう。勿論、手袋も忘れてはいけない。

そんな事を考えながら、私はTVのニュースを聞きながら、スマホでニューストピックを読み、朝食を食べた。

すると、ダイニングのドアがいきなり開き、瑤子が入ってきた。

「乾燥してるみたいで、喉がいがらっぽくて、咳して目が覚めたの。水を一杯飲むわ」

そう言って、瑤子は食器棚からグラスを取り出し、ウォーターサーバーで水を汲み、一気に飲み干した。飲み終わったグラスをシンクに置き、瑤子は私の方を見て「今朝も会議?」と訊いた。

「そう、全部門会議があって、その後島田常務とミーティングがあるんだ」
「そうなの?大変ね。あなたが、今の全国紙専属広告会社の中で、最年少取締役なんて似合わないわよね。ちょっと前までのあなたは根っからのクリエイターで、今とは真逆で、夜はタクシー帰りばっかりで、朝は大体遅めに家を出てたのに、今じゃ、着こなせてないスーツ着て、ネクタイまで絞めて、夜明け前に起きて出社するようになるなんて、考えられないわ。」
「仕方ないだろう。これでも取締役なんだから、それなりの身なりで出社しなくてはならないんだ。僕だって、なりたくてなった訳じゃない事は君の知ってるだろう?」
「瑞希が、パパもネクタイして会社に行ったらって言われて、あなたはフリーになって、今まで通りの格好で現場で働くのを断念したんだもんね」
「そうだ。それに、僕が取締役になったおかげでこのマンションのローンの支払いも随分と楽になったじゃないか」
「それは、そうなんだけど。あんなにラフな格好で出社してたあなたが、毎朝、堅苦しいスーツ着てるのを見るとさ、何だかおかしくて。宮仕えも大変ね。それより聞いて?瑞希の事なんだけど、昨日、あの子からメールが来たんだけどねえ、あの子、高校卒業までずっと、あっちにいたいって言ってきたのよ」
「あっちって、サンフランシスコの今の学校?」
「そう。それですぐにビデオ電話したんだけど、あの子と話してても、電話じゃ埒が明かなくって、理由がはっきりしないのよ。だから、私、来週、あっちに行ってこようと思うの」
「君が、向こうに行くの?」
「そう、昨日チケットは取ったのよ。今度の日曜日に成田から飛ぶわ」
「分かったよ。帰りは?」
「まだ決めてない。帰る便が決まったら、あっちからメールするわ」
「分かったよ。メールは頼む。ああ、そろそろ出かけないと…」
「そう、私はもうちょっと寝るから。いってらっしゃ…あっそうそう、今晩はPTAの役員の新年会があるんで遅くなるから、あなた、どこかで夕食済ませてくれない?」
「ああ、それは丁度良かった。僕も自分が現役時代にCMを作ってた餃子があるだろう?あれの新しいCMを斎藤君が担当して作ったんだが、お陰様でアメリカのCMアワードで食品部門でグランプリを獲ってね。それの祝賀会があるんだ」
「それって、ホテルの大宴会場でやるようなヤツ?」
「いや、クライアントの担当者と、うちの営業の上から現場までと、CRは本部長の僕と局長と部長と現場の斎藤君という、比較的こじんまりとした祝勝会みたいなもんだ」
「そう、あなた下戸なのに大変ね」
「まあ、お祝い事だから仕方ないね。僕は一次会で失礼するからそんなに遅くはならないと思う」
「私も、学校の近くのイタリアンレストランだから、駅三つだし、遅くても10時過ぎぐらいなんじゃないかしら」
「それなら、僕と同じぐらいかもね。いかん、遅くなっちゃう。僕はもう出かけるよ。すまんが、食器を洗っておいてくれないか?」
「いいわよ。次に起きたら洗っておくわ。行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくるよ」


僕は玄関で慌ててコートを羽織り、エレベーターに乗った。
1階のロビーから外に出てから、マフラーも手袋も忘れた事に気がついた。
ここから駅までは徒歩で10分。何とか寒さを堪えて駅の方へ歩き出した。


あまりに風が冷たいので首を竦め、手先を守るためにコートのポケットに手を突っ込んで歩き、何とか乗りたい電車に、僕は乗れた。


電車は特急で、指定券を買って乗る。

勿論、指定券は自腹だが、それは取締役の報酬分で十分に賄えるものだったし、30分とは言え、席に座ってスマホで仕事をしながら通勤できるメリットは大きい。

いつもの僕は、席に座るなり社用スマホを取り出し、メールやチャットを確認するのだが、今朝は違った。
何故違うのかと言えば、理由は簡単だ。


今朝は、朝から瑤子と会い、会話までしたからだ。


普段、こんな朝早くに瑤子は起きてこない。

瑞希は、中学受験をし、私立の中高一貫校に入った。その学校には給食がなく、瑤子はお弁当を作るために、毎朝5時には起きていたのだが、瑞希は高校に上がってすぐに、学校の交換留学プログラムを利用して、今はサンフランシスコにいる。
従って、瑤子は弁当を作る必要がなくなり、早く起きる事から解放された。
彼女は、僕が取締役になるまではずっと、僕がいる日葉新聞グループの雑誌社で編集者として働いていたのだが、3年前に僕がうちの日葉広告社で制作部門の取締役本部長になってから、彼女は会社を辞めて、専業主婦になった。

彼女が会社員をしてた頃は、朝は8時に家を出て、夜は遅くても7時までには帰ってきて、お腹が空いた娘のために、夕食を作る優秀な「働くママ」で、それに対して、僕はCMディレクターとして、朝も昼も夜も関係ない、「家の事は全くできないダメなパパ」だった。

だから、その時も僕ら夫婦はあまり顔を合わせる事がなく、何日も会話する事もない事が普通だった。

そして、今は僕が取締役として、朝早くから出勤し、夜は大体、仕事がらみの会食する事が多く、家には寝に帰るだけだった。

専業主婦で弁当を作り、娘を送り出す必要がなくなった彼女は、当然のように朝遅めに起き、昼間は家で小遣い稼ぎのライター仕事を家でやり、夜は色んな会合で外出がちになった。

そのため、僕ら夫婦は、前より一層、すれ違いが酷くなり、それに伴い、会話量が格段に減ってしまった。


なのに、今朝は会って顔を見て、会話した。それもいつもより長めに話した。


それが僕には何だか、ショックだった。



夫婦だから、話をするのは当たり前なんだが、うちの場合、こんなに話してないと、たまに会って話しただけで、大いにドギマギする。


だから、今朝の僕はスマホを開けられないし、仕事にかかれないのだ。

いやあ、まだ「あなた」って、呼ばれるのは慣れねえよな。

瑞希が生まれる前までは、瑤子は僕の事を「喜一郎さん」って、名前で呼んでた。瑞希が生まれた後は、ずっと「パパ」だった。
瑞希がサンフランシスコへ行ってしまった後、瑤子は急に僕の事を「あなた」って、呼ぶようになった。
あれは何だな…他人のような感じがするよ。
でも、こんだけコミュニケーション不足だと、それも、仕方ないのか…
いや、一度「あなた」は、むず痒いって、言ってみようか…

面倒臭い… まあ、いいか…


それにしても…


瑞希は、何で帰って来ないんだ?


瑤子があっちに行くって?

あいつは、瑞希が向こうの学校の寮に入る時も一緒に行ってただろう?
僕は仕事で行けなかったのに…

で、また、瑤子は一人で向こうに行く?

羨ましいじゃないか…

僕も、暇なら行きたいんだが…
いや、今僕に、そんな暇はない。
こんなに厄介な案件を抱えてて、それを放り出して、行ける訳がない。
マジで厄介だ…


いかん、仕事に戻らねば…


僕は意を決して、家の事は忘れ去り、仕事に没頭しようとスマホを開けた。


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