本能寺の変1582 【重史007】 260322 №6-085 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史007】 「多聞院日記」260322 №6-085
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250509 250817 260322
【重史007】 260322 №6-085
①(八月)廿一日、今暁、惟任(奈良から)帰られおわんぬ、
②惟任(光秀)の妹の御ツマキ、死におわんぬ、
③信長、一段のキヨシなり、
④向州(光秀)、比類なく、力を落とすなり、
「多聞院日記」
天正九年1581、八月二十一日。 158100821
本能寺の変の前年である。
この時、光秀は、郡山城の普請を検分するため奈良に入っていた。
↓【参照1】【重史173】
光秀は、筒井順慶を与力としていた。
奈良は、順慶の領国。 ↓【参照3】
順慶は、光秀の指揮下にあった。
廿一日、
今暁、惟任帰られおわんぬ、
殊に儀なく、珍重々々、
光秀は、妹 妻木氏を失った。
この、重要な時期に、・・・・・。
去る七日・八日の比(ころ)歟(か)、
惟任の妹の御ツマキ、死におわんぬ、
信長、一段のキヨシなり、
向州、比類なく、力を落とすなり、
(「多聞院日記」)
妹 妻木氏は、信長の側近くに仕える高位の女房衆。
光秀にとって、きわめて重要な情報源だった。
こちら↓【参照2】も、併せてご覧下さい。
光秀の妹 妻木氏は、信長のお気に入りだった。
「一段のキヨシなり」、とある。
光秀は、大いに落胆した。
「比類なく、力を落とすなり」
衝撃の程がよくわかる。
光秀は、大きなダメージを受けた。
その損失は、計り知れない。
そのことが、光秀の足を引っ張ることになる。
信長のことが、・・・・・。
突然、「見えず」・「聞こえず」の状態になってしまった。
【引用】4 光秀の苦悩 2志向の相違 ◎第8話 ◎小8 第8話
【参照1】【重史173】
天正九年1581、八月十九日。
光秀は、奈良に入った。
十九日、
一、佐久間(信盛)十津川の湯にて死ぬにつき、
高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
信長より仰せつけられ、上使、指し上らるゝのところ、
悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、
これにより、諸国の高野聖とらえらる、
近日、手遣ひのあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)、これ在りと云々、
高野滅亡、時刻到来か、
一、惟任日向守、郡山城普請見舞として、
今朝、早々、成身院まで越しおわんぬ、
十新、是へ来しおわんぬ、
成(成身院)にて、一献これ在り、
頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
人数百計(ばか)り歟と云々、
(「多聞院日記」)
【参照2】【重史006】 ◎第8話
天正七年1579、妻木氏に関して。
(四月)十八日、妻木惟向州妹、参宮、
(九月)廿五日、惟任姉(妹)妻木、在京の間、罷り
「兼見卿記」
【参照3】以下、畿内の情勢について、「多聞院日記」の記述。
天正四年1576、五月十日
和州一國一圓、筒井順慶存知有るべきの由
天正五年1577、十月十一日
昨夜、松永父子、腹切り、自焼しおわんぬ、
天正八年1580、八月二日
去る二日、大坂、城渡しおわんぬ、
近衛殿請け取られ渡して後、やく(焼)る様に用意しけるか、
無残、二日一夜、明け三日までに、皆々焼けおわんぬ、
(八月五日条)
順慶、二日に京に上り、昨夕歸り了、
國中諸城、破るべしと云々、
(八月四日条)
同年、八月十七日
今日、平城破却と云々、
当国、悉(ことごと)く以って、破るべしと云々、
郡山一城迄残すべしと云々、
⇒ 次へつづく
