本能寺の変1582 【重要史料】 251224 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重要史料】 251224
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
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【重史全通】
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【重要史料10】 181~200
【重要史料11】 201~220
【重要史料12】 221~240
【重史221】 公 天正08 158010702
①大坂本門跡、三使を以て、七月二日、御礼。
②進物、御太刀代・銀子百枚。
③中将信忠卿へ御礼申す。
④信長公、御対面これなし。
⑤黄金三十枚、門跡へ。黄金二十枚、北方へ。
『信長公記』
【重史222】 公 天正08 158010802
①さる程に、新門跡大坂渡し進(まいら)すべきの御請けなり。
②天正八年庚辰(かのえたつ)八月二日、新門跡、大坂退出の次第。
③抑(そもそ)も、大坂は、凡そ、日本一の境地なり。
④家門長久の処に、思はず、天魔の所為(しょい)来りて、
⑤爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、
⑥信長公、御成りあつて、御見物なさるべく、其の意を存知、
⑦海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。
⑧余多の伽藍、一宇も残さず、夜日三日、黒雲となつて焼けぬ。
『信長公記』
【重史223】 公 天正08 158010424
①四月廿四日、播州の内しそ郡に、
②此の競ひを以て、阿賀へ取り懸けられ候ところ、
③姫路に、羽柴筑前守秀吉、在城あるべく、普請申し付け、
④羽柴筑前守、舎弟 木下小一郎、但馬国へ乱入、
⑤信長公の御威光、忝き御事なり。
⑥両国、平均に候ヘキ。
⑦都鄙の面目、後代の名誉、これに過ぐべからず。
『信長公記』
【重史224】 公 天正08 158010606
①播州しそ郡に楯籠る宇野民部、六月五日、夜中に退散。
②六月六日、因幡・伯耆両国境目に至りて相働き、
③馳せ向ふべき行(てだて)は、一切にこれなく、
④国端の城主、縁々を以て、降参の御断り申し、
⑤羽柴筑前守秀吉、条々(数々の手柄)、名誉の旨、
⑥信長公、御感なされ候ひキ。
『信長公記』
【重史225】 公 天正10 158200511
①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
『信長公記』
【重史226】 W 37 38 39 公 天正10 158200515
①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
②其の御礼として、徳川家康公幷びに穴山梅雪、今度、上国候。
③五月十四日、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
④同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、
⑤五月十五日、家康公、安土に至りて御参着。
⑥御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
⑦十五日より十七日まで、三日の御事なり。
『信長公記』
【重史227】 W 20 21 公 天正10 1582005**
①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。
③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
⑤中国の歴々討ち果たし、
⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、
『信長公記』
【重史228】 公 天正10 158200519
①五月十九日、安土御山惣見寺において、
②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、
③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、
④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
『信長公記』
【重史229】 公 天正10 158200520
①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
②御座敷は、高雲寺御殿、
③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
『信長公記』
【重史230】 公 天正10 158200521
①五月廿一日、家康公御上洛。
②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
③案内人は、長谷川秀一。
④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
『信長公記』
【重史231】 ✓ 天正10 158200521
①信長の長男(信忠)が都に到着し、
②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
『日本史』
【重史232】 ✓ 天正10 158200521
①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
「イエズス会日本年報」
【重史233】 W 31 公 天正10 158200527
①次の日、廿七日に、亀山より、愛宕山へ仏詣。
②一宿参籠致し、
③惟任日向守、心持御座候や、
④二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し候。
『信長公記』
【重史234】 W 31 公 天正10 158200528
①廿八日、西坊にて連歌興行。
②ときは今、あめが下知る五月哉
③五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
『信長公記』
【重史235】 ✓ 天正10 1582005**
①信長が戦争においては怖(おそ)るるところなく、
②心寛(ひろ)く武略と生来の智慮を有するにより、
③常に日本の人心を収攬し、
④短き年月の間に五十余ヵ国をその支配の下に置き、
⑤日本の富と貴重なる物は悉(ことごと)く彼の所有に帰した。
⑥彼は益々その勢力と名声を現はさんため、
「イエズス会日本年報」
【重史236】 ✓ 天正10 1582005**
①彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑した
②我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
③彼(信長)は数回説教を聴き、
④傲慢であるためデウスの御恵を受くることができなかった。
⑤謙遜することなく、かへって益々傲慢となり、
⑥ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
「イエズス会日本年報」
【重史237】 ✓ 天正10 1582005**
①安土山・・・に・・・非常に立派なる城と宮殿とを建築した。
②主なる領主に妻子と共に同所に居住・・・することを命じた。
③都より安土山まで・・・に平坦な道を造り、両側に木を植え、
④絶えず戦争のあったこの諸国を・・・漸次平和に帰せしめた。
⑤高い税を・・・一切免除し・・・一般人民の心を収攬した。
「イエズス会日本年報」
【重史238】 16~17/19 公 天正08 1580108**
①三十年奉公を遂ぐるの内に、
②比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。
③先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
④一人も殺さず。
⑤剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、
『信長公記』
【重史239】 18~19/19 公 天正08 1580108**
①此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、
②父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
『信長公記』
【重史240】 折檻状全文 1~19/19 公 天正08 1580108**
W 163 164 165 166 167 168 238 239 172
1 父子、五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、
2 此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇(武辺)にも構へず、
3 丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし候。
次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。
4 柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知ながら、
5 武篇道ふがひなきにおいては、
6 やす田(保田安政)の儀、
7 信長家中にては、進退各別に候か。
8 小河(緒川)・かり屋(刈谷)、跡職申し付け候ところ、
9 山崎申し付け候に、
10 先々(先代)より、自分に拘(かか)へ置き候者どもに、
11 先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、
12 甚九郎、覚悟の条々、書き並べ候へば、
13 大まはしに、つもり候へば(大略を言えば)、
14 与力を専(もっぱら)とし、
15 右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(遠慮)候の事、
16 信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
17 先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
18 此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、
19 父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
『信長公記』
現在進行中!!
⇒ 次へつづく
