【創作大賞2025応募作《ミステリー小説部門》】サウザンド・ティアーズ① ~うまくいってるなんて思えた事は一度もない。ただ、涙を流さずに生きるだけで精一杯だ。
《あらすじ》
花房慶次朗は姉の恵美と一緒に、幼い時に親に捨てられ、児童養護施設で育った。先に高校を卒業した恵美は、ロードサイドの定食屋で働き、そこで出会った山野辺運送のドライバー、岩沢栄作と結婚し、一人息子の意人(おきと)を生んだ。
その後、栄作を交通事故で亡くし、恵美は山野辺運送の社長・山野辺佐紀彦の支援を受け、同社の社員寮で意人と二人で住んだ。
慶次朗は高校卒業後、街をふらついた後、歌舞伎町のホストクラブ「クラブM」のオーナー兼ナンバー1であるメロウに拾われ、ホストになった。
《本文》
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俺は、これまでの自分の人生、上手くいってるなんて思った事は一度もない。
ただ、泣かないようにするだけで精一杯だ。
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恵美姉曰く、
「人間は生まれてから死ぬまでの間に千回泣いてよい事になっており、その涙の量は、合計すると1ℓ、つまり1000㏄になる。千回の涙の総量は、1000㏄。一回=1㏄だが、これは平均すればよいそうで、ワンワン泣く時もあれば、あまりに悔しくて涙も出ない時もあっていいらしい。
とにかく、一生のうちで流す涙は1000㏄。それだけは決まっているという事だ。
恵美姉は、俺らを捨てたお母さんからそれを聞いたんだそうだ。
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俺と恵美姉は、二人だけの姉弟で、二人きりで江東区の児童養護施設で育った。
悲しい事や辛い事が遭った時、泣いてる俺に向かって、いつも恵美姉はこの言葉を言ってくれた。それを聞いて、俺は泣くのを止めた。
千回の涙
流す量は、1000cc
慶次朗はその話を児童施設に入ったばかりの頃、母が恋しくて涙が止まらなくなった夜に、恵美から聞いた。
一生に千回しか泣けないんじゃ、子供のうちに沢山泣いてしまってはいけないと思ったのを覚えている。
大人になってから、泣きたい時に泣けないのは辛いと思ったんだ。
いつの頃か、俺も恵美姉も泣いた数を勘定するようになった。
慶次朗の涙は、これまでに381回だ。
恵美に訊いたら、恵美はもう、582回も泣いたと言っていた。
慶次朗は、恵美に訊いた。
「人生はまだ長いのに、もう半分以上だ。大丈夫なのか?」と
恵美は笑って答えた。
「これまでが辛かったからね。これからはずっと笑って暮らせるはずよ」と
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7月29日 午後6時。
慶次朗は店の若手のルミーと一緒に、歌舞伎町の立ち食いそば屋にいた。
店の外は土砂降りの雨だ。
「ゲリラ豪雨って、年々酷くなってません?今日、ものすごいっすよ。雷、鳴りまくってるし」
「まあな。ルミー、こんな酷い雨ん中、早めに出てきてもらって、悪かったな」
「いいっすよ。こっちは飯食わしてもらえるんで、正直助かります」
「そうか…でもお前、へりくだってる割には、ムッチャ食うな」
ルミーの前にはカツカレーと肉蕎麦が並んでいる。
「すんません。何せ金がねえんで、一日一食ライフなんで…」
「また、金がねえのか…競艇か?」
「いや、自転車っす。アキオが伝説の予想屋を知ってるって言って、平塚に出かけたんですが…その予想屋がその日に限って出てなくって…だったら止めりゃいいのに、場内入ったら、アドレナリン出ちゃって…」
「それで、スッカラカンか?」
「…です」
「じゃあ、明後日の月末までは苦しいんだな。お前らまだ給料制だもんな」
「ですね」
ケイは、上着の内ポケットから財布を出し、三万円を抜き取り、ルミーへ差し出した。
「貸しといてやるよ。月初に返してくれればいい。」
「ありがとうございます!助かります」
「いいよ、まあ食えよ。俺は食うぜ。いただきます」
そう言って、慶次朗は自分の冷やしたぬき蕎麦に箸をつけた。
「ありがとうございます」そう言いながら、ルミーは箸を持ち、蕎麦を持ち上げた。
「ルミー!」
「はっ、はい。何すか?」
「食べる前には、いただきますと言え」
「ああ、ハイ…でも何でですか?」
「言わずに食べるとなあ、恵美姉に叱られるからだ」
「恵美姉って、ケイさんのホントのお姉さんっすか?」
「ああ、たった一人の肉親だ」
「そうなんっすね」そう言いながら、ルミーはまた蕎麦に箸をつけた。
「いただきます、だろう?」
「あっ、ああ、いただきます」
「よし、いいだろう。食おうぜ」
二人は、しゃべるのを止めた。そして、蕎麦を啜った。
自分の蕎麦を半分ぐらい食べた時に、急にケイが話し出した。
「ルミー、今訊く事じゃねえかもしれんがさあ、お前、何でルミーなんだ?」
「ああ、それは簡単っすよ。俺、本名が岸田留美男っていうんす。店の面接のときに、メロウさんが、それを見て、すぐに俺の源氏名をルミーにしたんすよ。そう言えば、ケイさんも本名からきてるんすよね?」
「俺、俺もそう、俺も本名が花房慶次朗だから、ケイになったんだ。俺もメロウさんがつけてくれた」
「そうなんですね。花房慶次朗かあ、カッコイイ名前っすね」
「いやあ、俺は古臭くて嫌いなんだけ、こればかりは仕方ねえよな。でもさあ、そうなると、メロウさんはどういう事なんだろうね?」
「ええ?ケイさんも知らないんっすか?」
「知らねえし、そんなん今まで気にした事もなかったわ」
「そんなん、うちのナンバー2で、メロウさんのマンションに同居までしてるケイさんが知らないんじゃ、他に誰も知らないっすよ」
「まあそうか…そうなるわな。でも、あの人、絶対メロウって名前の感じだよな」
「そうっすね。メロウさんはメロウって名前がぴったりっすよね。例えば、本名が秀高だってなっても、ちょっとピンとこない感じがしますよね」
「秀高?ない、ない、そんなん、絶対ねえよ」
店の角にあるテレビが甲高い大声を出した。二人はそれに耳を取られた。
「緊急速報です。銀座で通り魔事件が遭った模様です!目撃者の話によると、若い女性が何者かに刺されたようです。今、警察が出て現場検証中のようで、詳細は分かっておりません。詳しい事が分かり次第、また、続報をお知らせします」
「銀座で通り魔っすかあ?歌舞伎町ならいざ知らず、銀座って、珍しいっすよねえ」
「まあそうだなあ」
「銀座?銀座って言えば、今日、ケイさんは銀狐と同伴じゃないんっすか?だって、今日、ケイさんのバースデーでしょう?」
「銀座で寿司を食う予定してたんだがな。この雨が降り出した直後にいきなりキャンセルされっちまってなあ」
「そりゃ酷いっすね」
「いやあ、あのおばさんならやりかねないさ。何せ、雨が嫌いな人だからな。雷はもっと嫌いだし」
「そりゃそうでしょうね。あの人、いつもジャラジャラと一杯ジュエリーつけてますもんね。あんなんで、外歩いたら、雷に打たれっちまう」
「だろうなあ」
銀狐とは、銀座に本店があるフォックスジュエリーというジュエリーのチェーン店の社長をしている峯田幸代の事で、峯田はケイの一番太い客だ。
二人で食ってる最中も、ケイのスマホの着信音は鳴りやまない。
お祝いメールと、今日来店するスケジュールの確認メールがわんさか来てる。
携帯が鳴る度、ケイはいちいち画面を開いて内容を確認する。
そうする事で既読がつくからだ。
ケイは、後でまとめて返信しようと思っていた。
「しかし、7月の終わりが誕生日って、珍しいっすよねえ」蕎麦を食い終わったルミーが、カツカレーを食べるためにスプーンに持ち替えながら、ケイに言った。
「何だその偏見は?まあいいや。うちは俺も姉ちゃんも7月29日が誕生日だよ」
「ええ、姉弟とも同じ日ですか?」
「ああ、でも嘘なんだけどな」
「嘘?」
「ああ、ホントの俺の誕生日は分からないんだ」
「分からないって?」
「俺も姉ちゃんも捨て子でな。児童養護施設に入った日が誕生日なんだ。戸籍も何もなくってな」
「そうかあ、だから、お姉さんと一緒の日なんですね」
「そういう事だな。だから、俺にとって、誕生日なんて別にどうってことないただの日なんだけどな」
「じゃあ、今日のバースデーパーティは憂鬱ですか?」
「いや、それとこれは別だ。仕事は仕事だからな。さあ、早く食え」
ケイはとっくに蕎麦を食べ終わっていた。
ルミーは、まだカツカレーが半分ほど残っている。
ケイは、丼を返却口に持って行った。
ルミーは、慌ててカレーを口に搔っ込んだ。
「待って下さいよ」
「待たねえよ。そんなに沢山頼んだのはお前だ。さっさと食えよ」
「いや、俺ぐらいの若い男子はこれぐらい食うでしょうよ。おかしいのはケイさんの方でしょう?ケイさんの方こそ、背高いのに、何でそんなに少食なんですか?」
「バカ野郎。今、食い過ぎたら、アフターの時に何も食えなくなるだろう」
「ああ、そうか。そうっすよねえ…」
「だから、早く食っちまえって。先行くぞ」
ケイは店を出た。
外はまだ嵐のように雨風が吹き荒れている。これじゃあ、傘は役に立たない。
ケイは傘もささずに、自分が勤める店「クラブM」のあるビルへと向かった。
ルミーは、慌てて食器を返却口へ戻し、ケイの後を追った。
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嵐のような天候であるにも拘らず、店は開店と同時に客が押し寄せた。
来る客来る客、全員、ケイ推しの客ばかりだった。
クラブMは大店ではなく、中規模店なので、一度に収容できる客は多くても12組程度で、今晩は全部のボックスを時間制にして、客の回転効率を良くしていた。
客がよく回るという事は、ケイが忙しくなるという事に直結し、ケイは何度も乾杯し、シャンパンや赤ワインを何度も飲み干した。
流石に今日は酔っ払ったなあ…
客と客の間の短い休憩の時、ケイはカウンターに一人で座り、水を飲んでいた。
腕時計を見ると、時刻はまだ10時過ぎを指しており、後まだ2時間ぐらいは飲まなければならない。
一旦吐くか?
今日は、このままだと潰れてしまう可能性がある。
潰れる前に吐いてしまえば、また息を吹き返す可能性が高い。
ただ、店の中で酒の強さでは一、二を争う程のケイだ。
その俺が、店のトイレで吐く?
そんなカッコ悪い姿を若い奴等に見られたくない。
いや、でも…今日は流石に良いんじゃねえか…
まあなあ
水をガブガブ飲みながら、ケイは心の中の葛藤と闘っていた。
トイレに行っちまおうぜ。それで楽になる。
楽になるのはそうだな。間違いない。
「ケイ、ちょっといい?」
「うへ…ああ、メロウさん、何ですか?」
心ここにあらずだったケイは、メロウから急に声をかけられてビックリした。
「アフターの予定が聞きたかったんだよ」
「ああ、それはまだ確定ではないですが、さっきLINEが来て、外の雨が弱まったから、もうすぐ銀狐が来るみたいなんです。」
「フォックスジュエリーの社長の峯田さんの事?」
「そう、峯田幸代さんが来ます。あのおばちゃんに閉店までいてもらって、そのままアフターに行こうと思ってます」
「そうか…じゃあ、食事の後、カラオケ必須だね?」
「そうなりますね」
「分かった。じゃあ、なるべく朝7時までには帰ってきてよ」
「何があるんっすか?」
「決まってるじゃない。僕ら二人だけで君の誕生日パーティをするんだよ」
「えっ、ええ、でも、コロナ以降、俺とメロウさんとナンバー1、ナンバー2が感染しないように接触しない事になってるじゃないですか…」
「コロナ?流石に、もう大丈夫でしょう。いいね、7時だよ。僕は待ってるからね」
「分かりました…」
メロウは両刀使いで、しかもケイにぞっこんで、いつでもケイに抱かれたい。
ケイは高校卒業後、宛てもなく街をふらついてる自分をメロウに拾ってもらったという恩義があり、一緒の部屋に住んだ直後は、自分を騙して、メロウに言われるがままに従った。しかし、コロナ禍の時に、店の売上が大赤字になり、ナンバー1のメロウと、ナンバー2のケイが、一緒のベッドで寝起きし、二人で感染してしまうのは絶対に避けなくてはならなくなったお陰で、メロウはケイを自分のベッドには誘わなくなった。
元より、その気がないケイは助かったと思った。
それからはずっと、ケイは一人で寝る事ができて、快適な暮らしが続いた。
しかし、明朝には崩れそうになっている。
メロウのさっきの誘いはそういう事だ。
ケイは尚一層、胸糞悪くなってきた。
仕方ない。吐こう
覚悟を決めて、ケイはカウンターのスツールから立ち上がり、トイレへと向かった。
