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本能寺の変1582 【重要史料12】 221~240 №6-066 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重要史料12】 221~240      №6-066

はじめに ←目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2光秀の実像 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断
【重要コメント】  
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【京都馬揃え】 【重史191】 【重史200】 【重史201】 【重史202】
 【重史242】 【重史243】 【重史244】 【重史245】 【重史246】
 【重史247】 【重史248】 【重史249】 【重史250】 【重史251】
 【重史252】 【重史253】 【重史254】 【重史255】
 【さらなる夢】 【重史140】 【重史141】 【重史142】
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【信長という男】 目次
 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 結論  【重史146】
 【光秀という男】 目次
 1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
 結論 目 1/82/83/84/85/x6/x7/x8/x9/x
 10/x11/x12/x13/x14/x15/x16/x17/x 目 18/x 目
 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】
 【時は今・・・】 目次
 0521 目 0526  0527  0528 目 0529
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
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 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重要史料12】 221~240              №6-066

【重史221】                公 天正08 158010702
  ①大坂本門跡、三使を以て、七月二日、御礼。
  ②進物、御太刀代・銀子百枚。
  ③中将信忠卿へ御礼申す。
  ④信長公、御対面これなし。
  ⑤黄金三十枚、門跡へ。黄金二十枚、北方へ。
                           『信長公記』

【重史222】                公 天正08 158010802
  ①さる程に、新門跡大坂渡し進(まいら)すべきの御請けなり。
  ②天正八年庚辰(かのえたつ)八月二日、新門跡、大坂退出の次第。
  ③抑(そもそ)も、大坂は、凡そ、日本一の境地なり。
  ④家門長久の処に、思はず、天魔の所為(しょい)来りて、
  ⑤爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、
  ⑥信長公、御成りあつて、御見物なさるべく、其の意を存知、
  ⑦海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。
  ⑧余多の伽藍、一宇も残さず、夜日三日、黒雲となつて焼けぬ。
                           『信長公記』

【重史223】                公 天正08 158010424
  ①四月廿四日、播州の内しそ郡に、
  ②此の競ひを以て、阿賀へ取り懸けられ候ところ、
  ③姫路に、羽柴筑前守秀吉、在城あるべく、普請申し付け、
  ④羽柴筑前守、舎弟 木下小一郎、但馬国へ乱入、
  ⑤信長公の御威光、忝き御事なり。
  ⑥両国、平均に候ヘキ。
  ⑦都鄙の面目、後代の名誉、これに過ぐべからず。
                           『信長公記』

【重史224】                公 天正08 158010606
  ①播州しそ郡に楯籠る宇野民部、六月五日、夜中に退散。
  ②六月六日、因幡・伯耆両国境目に至りて相働き、
  ③馳せ向ふべき行(てだて)は、一切にこれなく、
  ④国端の城主、縁々を以て、降参の御断り申し、
  ⑤羽柴筑前守秀吉、条々(数々の手柄)、名誉の旨、
  ⑥信長公、御感なされ候ひキ。
                           『信長公記』

【重史225】                公 天正10 158200511
  ①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
  ②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
  ③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
                           『信長公記』

【重史226】 W 37 38 39        公 天正10 158200515
  ①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
  ②其の御礼として、徳川家康公幷びに穴山梅雪、今度、上国候。
  ③五月十四日、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
  ④同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、
  ⑤五月十五日、家康公、安土に至りて御参着。
  ⑥御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
  ⑦十五日より十七日まで、三日の御事なり。
                           『信長公記』

【重史227】 W 20 21          公 天正10 1582005**
  ①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
  ②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。
  ③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
  ④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
  ⑤中国の歴々討ち果たし、
  ⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
  ⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、
                           『信長公記』

【重史228】                公 天正10 158200519
  ①五月十九日、安土御山惣見寺において、
  ②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、
  ③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、
  ④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
  ⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
  ⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
                           『信長公記』

【重史229】                公 天正10 158200520
  ①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
  ②御座敷は、高雲寺御殿、
  ③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
  ④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
  ⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
                           『信長公記』

【重史230】                公 天正10 158200521
  ①五月廿一日、家康公御上洛。
  ②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
  ③案内人は、長谷川秀一。
  ④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
                           『信長公記』

【重史231】                ✓ 天正10 158200521
  ①信長の長男(信忠)が都に到着し、
  ②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
                            『日本史』

【重史232】                ✓ 天正10 158200521
  ①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
  ②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
                      「イエズス会日本年報」

【重史233】 W 31            公 天正10 158200527
  ①次の日、廿七日に、亀山より、愛宕山へ仏詣。
  ②一宿参籠致し、
  ③惟任日向守、心持御座候や、
  ④二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し候。
                           『信長公記』

【重史234】 W 31            公 天正10 158200528
  ①廿八日、西坊にて連歌興行。
  ②ときは今、あめが下知る五月哉
  ③五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
                           『信長公記』

【重史235】                 ✓ 天正10 1582005**
  ①信長が戦争においては怖(おそ)るるところなく、
  ②心寛(ひろ)く武略と生来の智慮を有するにより、
  ③常に日本の人心を収攬し、
  ④短き年月の間に五十余ヵ国をその支配の下に置き、
  ⑤日本の富と貴重なる物は悉(ことごと)く彼の所有に帰した。
  ⑥彼は益々その勢力と名声を現はさんため、
                       「イエズス会日本年報」

【重史236】                 ✓ 天正10 1582005**
  ①彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑した
  ②我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
  ③彼(信長)は数回説教を聴き、
  ④傲慢であるためデウスの御恵を受くることができなかった。
  ⑤謙遜することなく、かへって益々傲慢となり、
  ⑥ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
                       「イエズス会日本年報」

【重史237】                 ✓ 天正10 1582005**
  ①安土山・・・に・・・非常に立派なる城と宮殿とを建築した。
  ②主なる領主に妻子と共に同所に居住・・・することを命じた。
  ③都より安土山まで・・・に平坦な道を造り、両側に木を植え、
  ④絶えず戦争のあったこの諸国を・・・漸次平和に帰せしめた。
  ⑤高い税を・・・一切免除し・・・一般人民の心を収攬した。
                       「イエズス会日本年報」

【重史238】 16~17/19            公 天正08 1580108**
  ①三十年奉公を遂ぐるの内に、
  ②比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。
  ③先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
  ④一人も殺さず。
  ⑤剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、
                            『信長公記』

【重史239】 18~19/19            公 天正08 1580108**
  ①此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、
  ②父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
                            『信長公記』

【重史240】 折檻状全文 1~19/19      公 天正08 1580108**
       W 163 164 165 166 167 168 238 239 172
  1  父子、五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、
  2  此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇(武辺)にも構へず、
  3 丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし候。
    次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。
  4 柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知ながら、
  5  武篇道ふがひなきにおいては、
  6  やす田(保田安政)の儀、
  7  信長家中にては、進退各別に候か。
  8  小河(緒川)・かり屋(刈谷)、跡職申し付け候ところ、
  9  山崎申し付け候に、
  10 先々(先代)より、自分に拘(かか)へ置き候者どもに、
  11 先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、
  12 甚九郎、覚悟の条々、書き並べ候へば、
  13 大まはしに、つもり候へば(大略を言えば)、
  14 与力を専(もっぱら)とし、
  15 右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(遠慮)候の事、
  16 信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
  17 先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
  18 此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、
  19 父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
  抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
  口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
                       『信長公記』


     現在進行中!!



 ⇒ 次へつづく


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