【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第1話
【あらすじ】
鴨志田蓮はパワハラがきっかけで勤めていた会社を辞め、食品工場で夜勤の業務をしている。
母は蓮が小学生のころに家を出ていき、今は父、兄、兄の妻である義姉、甥(1歳)と共に暮らしている。
今の仕事には将来性がないとわかっているが、傷ついた心は癒えておらず、また母に捨てられたという幼いころのトラウマから積極性を持てないでいる。
そんなある日、高校の同級生から連絡がくる。全員宛のメールにはこのように書かれていた。
『幸田久子さんの所在を知りませんか』
蓮の脳裏に、一人の女性の記憶がよみがえる。
幸田久子。誰もが目を背けるほどの醜い女。そんな彼女に関して、蓮には忘れられない思い出があった。(299文字)
第1話
『続いてのニュースです』
カメラを見据えた女子アナウンサーの下瞼に、ぴりっと緊張が走った。
大きな身体を乗り出し、視聴者から寄せられた飼い猫の動画に目尻を下げていた男性コメンテーターが、彼女に倣って背筋を伸ばす。
女子アナウンサーの他に、スタジオの中には二人のコメンテーターがいた。一人は元野球選手である身体の大きな男性で、もう一人は若い女性だ。
『加害者同士の面識はありませんでした』
アナウンサーが事件の概要を読み始めた。闇サイトで出会った二人の人物が民家に押し入り強盗事件を起こした。
『ネットは怖いですね。僕は前から言ってるんですよ。そういうものばっかり頼っているとね、人と人とのつながりを忘れちゃうって』
男性の方がもっともらしくそう言って胸を張った。元野球選手の肩書を持ちながらも、今は天然キャラクターのタレントとして、スポーツ番組のみならずバラエティー番組でも活躍している。
『問題はツールそのものではなく、利用する側の意識の低さではないでしょうか』
女性コメンテーター、一条かれんが口を開いた。凛とした眉はわずかにひそめられ、長いまつげが一瞬だけ伏せられる。カメラが彼女の上半身をアップにした。豊満な胸が白いワイシャツを横に押し広げている。
『事件を起こすのは人ですよね。悪い目的を持っている者同士が簡単につながれてしまう、そういうツールとして使用されないための対策を講じていくことが肝要だと思います』
言い終えると、形のよい唇がきゅっと結ばれた。もう一台のカメラが正面から彼女の全身をとらえる。タイトスカートと太ももの隙間が、小さな黒い三角形を作っている。
「蓮くん」
一条かれんにそう呼ばれ、鴨志田蓮はぽかんと口を開けた。画面から、かれんがじっとこちらを見つめている。
「蓮くんってば」
声がしたのはテレビではなく、背後からだった。蓮は慌てて振り返る。
目の前の食卓にはすっかり湯気の消えた味噌汁と卵焼きがあった。手の中の茶碗は中がからっぽで、握られた箸は互い違いの方向を向いている。
「おかわり、する?」
蓋の開いたジャーの前で、しゃもじを片手にした義姉が蓮に尋ねた。兄と父も箸を止めて蓮を見ている。甥だけがうれしそうに自分の皿の卵焼きにフォークを刺していた。
返事の代わりに小さく頷き、義姉の前に茶碗を押し出す。彼女が面白そうに口元をゆがめた。
「蓮くん、一条かれん好きだもんねーぇ」
からかうような節をつけながら、茶碗にご飯をよそう。
黙っている蓮に代わり、兄がテレビに目をやりながら、
「華麗なる転身だよな。元はグラビアアイドルが、今ではコメンテーターか」
おかわりしたご飯の上に納豆をかけ、箸の先をくるくると回した。
「悪くないよな、一条かれん。美人だし、スタイルいいし、頭もいいし」
「なーんか上から目線。ねえ、蓮くん」
義姉が食卓の上に身を乗り出し、蓮に茶碗を差し出した。礼の代わりに、わずかに首をすくめて受け取る。
「あ。そういえばわたし、一条かれんに似てるって言われちゃった」
指についた米粒を唇でつまみ取りながら義姉が言った。
「はあ? 誰だよ、そんなこと言ったやつ」
兄が大袈裟に目をむく。
「八百屋のおじさん」
「あのおじさん、誰にでも言うんだよ。俺だって、向島健に似てるって言われたぜ」
「どこが!? 向島ファンが怒るよぉ」
義姉が笑いながら、兄に柔らかく肩をぶつけた。兄は「ほら、ここ」と指さしながら義姉に顔を近づける。
父は静かに食べ続けている。蓮も黙ったままご飯を口に運んだ。
「もう、あっくん。こぼしすぎ。ちゃんとお皿の上で食べなさい」
「やー、たまごー」
半分だけ賑やかな食卓で、蓮は残りの味噌汁をご飯にかけ、急いでかっこんだ。
